2019特定医療費受給者証更新

今年も、特定疾患の医療費受給者証の更新手続きの書類が送られてきました。
この申請で特定難病の人たちが、どれだけいるのか、県は把握しています。
医療費助成制度にはこれとは別に市の制度があります。
市の制度の場合、身体障害者手帳2級以上の場合、全ての医療費が免除されます。
特定疾患を患っている人の場合、身体障害者手帳を殆ど、持っています。
発症の初期で無ければ、我々の場合半分以上が2級以上です。
ですから、特定医療受給者証を申請しなくても、医療費の免除が受けられます。
特に、後期高齢者以前の人は、窓口や薬局で医療やお薬代を払わなくても済みます。
ということは、後期高齢者になる前までは、特定疾患医療費受給者証は必要ないことになります。
後期高齢者の場合は、負担割合率により、一度医療費を払い、5年以内に、領収書で、市へ申請し医療費の返還処理が必要になります。
特定疾患の場合、年齢に関係なく負担割合に従って、医療費を窓口や薬局で払い、あとで払い戻しが必要です。
そのため、後期高齢者前の患者は、特定疾患受給者証がないほうが、楽なので貰わない人がいます。
そうなると、自治体が把握する特定疾患の患者数と実際の数が違ってきます。
人口当たりの発症率が実際より低くなります。
後期高齢者の場合、どちらにしても窓口支払いは必用になります。
この場合も、特定疾患受給者証は必要性がありません。
必要な人は身体障害者手帳2級未満の方です。
僕の受診している、難病専門の国立の病院は、患者の把握のためにも、特定疾患の受給者証を持つことを言います。
人それぞれの考え方です。
数年前に医療制度が変わりました。
以前は、特定疾患医療費受給者証で、窓口や薬局での支払いは発生しませんでした。
だから、払い戻し処理は要りませんでした。
今は、負担限度に従って支払いが発生します。
後期高齢者になってからは、それまで不要だった、医療費の支払いや、払い戻し処理が必要になりました。
後期高齢者の方が、市民センターへ出向いて払い戻しが必要になります。
75歳以前では、医療費を払うことも、払い戻しも必要ありません。
逆ではないでしょうか?
役所の仕事を増やしています。
後期高齢者に大変なことを押し付けています。医療費の負担割合を0%にして、払い込み、払い戻しが発生しないようにしてください。
2つの制度を利用している僕が感じる疑問です。
注:僕の場合、重度の障害者なので、65歳から後期高齢者の扱いです。

朱鷺の苑での慰問コンサート

2019年6月22日(土)は日頃の練習の成果を、デイサービスセンター 朱鷺の苑二塚で、慰問という形で、発表させてもらいました。
友の会からは、原祐宏が、難病の種類は違いますが、一緒に練習している、坂井さん(全身性エリテマトーデス)、そして指導の齊藤先生と、先生の教室の生徒さんたちの11人で発表しました。

 

曲目は、
●(全員)キラキラ星、見上げてごらん夜の星を、バラが咲いた、北の国から、
●(プロムローズ三和)コロプチカ、マイボキー、真夜中のギター、
●(全員で歌とオカリナ)故郷、たなばたさま、しあわせなら手をたたこう、青い山脈、みかんの花咲く丘
を演奏しました。
今回披露させて頂いたのは、デイサービスセンターの方が対象だったので比較的みなさんお元気で、大変喜んで頂きました。
最後には、「また来てくださいね」と言っていただきました。

 

 

喜んで頂けると、練習に力がはいります。
来月も慰問の予定があります。

 

粕谷裕介君のお母さまから

2019年5月に同病で闘病生活を送っていた裕介くんが亡くなりました。

お母さまからSCD友の会に文を寄せて頂きました。

2月12日に体調が急変し、医王病院に救急搬送したところ、誤喋性肺炎でした。
その日からほとんど意識がなく、酸素マスクと点滴だけで生きていましたが、元号が令和に変わった5月1日、静かに息を引き取りました。
同志社大学のアメリカ研究科博士課程前期に在籍していた頃から歩行が困難になり、杖と車椅子の生活になりながらも、フィールドワークで、北海道や沖縄、海外のケントスにも取材に行き、修士論文を書き上げました。タイトルは「ノスタルジーの舞台 日本人がアメリカの過去を思い出す空間『ケントス』」というタイトルでした。
英語版も作成し、担当教享受はじめ、国内外から高い評価を受け、本人は大変喜んでいました。
その後しばらくして、後期の博士課程の論文を執筆中に、パソコンを打っのも不自由になり、途中で断念せざるおえなくなりました。
今はインターネットで自分の病気を誰もが調べることができる時代です。
自暴自棄になったこともありました。
ただ、医学学会で発表される関係の論文を常にチェックし、わずかな希望を持って生活していました。そして最後まで博士論文の完成をめざしていました。
できていたことが段々できなくなっていく絶望の中で、死を意識しながら生きた後半の10年間でした。
絵を描くことや、ギターを弾いたりすることも得意で、ライブで歌ったり、21美のシアター 21で音楽仲間と演奏会をしたりと活動的な息子でした。
友人もたくさんいて、金沢に戻ってからもひっきりなしに尋ねてくれて、家族ぐるみで楽しい時間を過ごしました。
高校生で1年間半オーストラリアに留学したため英語も堪能で、発病後もインドやオランダなどの海外や、フジロックやフィッシャーマンのライブなどにも、友人の力を借りながら、積極的に出かけました。
以前、金城大学で自分の病気について発表する機会を頂いたとき、「僕にはたくさんの友人がいる。病気になって人間関係が変わる人もいるだろう。
でも僕には今も変わらず友人がいる」と、我が家の玄関前で友人達と撮った写真で締めくくっていました。

本人のスマホを充電し、2013年からばったり止まり、2016年に唐突に「人生八方塞がりやわ、どないしたらいい?」を最後に途切れていた Facebookで、息子の死を報告しました。
すぐに多くの方からメッセージが来ました。
お一人だけ紹介します。
「いつも心の片隅で、どうしてるのかな、と思いながら過ごしていました。
お知らせを受け、いつかまた会おう、のいつかが叶わず終わってしまった悔いもあります。
喋れなくなっていく裕介に会うのをジカで見る恐れもあったのも事実です。私の中の裕介はいつもシャレを言ったり毒舌だったり、何かと面白おかしく喋っていた彼を一生私の中に埋め込んでおきたいという、自分勝手な思いもありました。
でもやっぱり会っておきたかった。
今、自分の弱さを責めています。
彼の友達との件の深さにはいつも脱帽でした。
裕介を通して知り合ったたくさんの素晴らしい人たちもいて、それにも感謝です。
今、裕介のCDたちを聴いています。
あの頃の裕介が脳裏に現れ、涙が止まりません。
こうやって音として裕介の存在が残っていることにまた感謝です。
彼はここで蘇っています。
シアター21で一緒にセッションした、現在海外のオーケストラに入っている友人です。

鶴来でのバーベキュー大会を思い出します。
本当にお世話になりました。
今もお元気な原会長はじめ、多くの方々に支えて頂きました。
心より感謝申し上げます。

粕谷裕介 母 粕谷雪子

 

 

まだ、亡くなってひと月ちょっとの、傷心のなか、きっと綴っている文章で息子の事が甦ってしまわれたのではないでしょうか。

ご冥福をお祈りいたします。

発症

私が脊髄小脳変性症であることが判明したのは、2008年
異変を感じたのは、2002年頃
 物が2重に見えたり段差に気が付かず、転ぶと言うことが時々あった。
母の病気のことは知っていたが、
   ・遺伝していとは思わなかった。
   ・当事者にならないと、どんな病気かも
    知ろうとしませんでした。
   ・「1リットルの涙」というドラマを見ても、
    自分に関係すると思わなかった。

判明後、
4年間、気持ちの整理が出来ず、人との接触避け、どん底で、性格も暗くなるばかり。→深く、深く海底に潜航していた。

高校時代は飛び込みでインターハイに出場したこともあったのに・・・

仕事への不安
 産業医と相談→出張の制限や残業の制限など勤務軽減をしてもらう
 2014年、定年退職を迎えた(60歳)

勤めていた会社は、大きな会社であった
⇒障害者に対する理解があり、働く上で色々配慮してくれた
同病の人からの話
⇒病気に対する配慮がなく「厄介者扱い」や「いじめ」があり病気を隠している人もいる。

そして2014年、定年退職を迎えた(60歳)

子供への不安
  私の病気は優性遺伝→遺伝の確立は50%
  →半々といっても、周りを見るとそれ以上の
   確立のように見える。
   子供が発症した場合の子どもの生活の安定が心配
 ・遺伝性の場合、自分だけでなく子供への影響が心配

私の病気が子供に遺伝しているか?
⇒血液でDNA検査をすれば判る。
しかし
遺伝子検査で、遺伝因子が確認できると、これまでの医師の経験から、発症時期はの早い、遅いはあるが99%は発症するという事を聞いた。
遺伝子確認することにより、遺伝していない場合は、安心できるが、遺伝していた場合、いつ発症するかという恐怖を感じながら生きなくてはいけない。
発症前に、遺伝子検査をすべきなのか、そうでないか 難しい問題です。
将来に対する不安を抱えながら生きていくのは残酷でもあります。

SCDの場合でも非遺伝性の場合は子孫への遺伝の心配がない。
自分のこれからの事をどう折り合いを付ければいいか。
少しは気が楽です。
とは言え、何で自分にと降りかかった不幸を嘆くのが、殆どです。