脊髄小脳変性症の症状①

ネットで調べると

歩行障害:歩行時にふらつき、転倒することが多くなる。
     目を瞑ると顕著。
     症状が重くなると歩行困難になる

肢体失調:手足を思い通りに動かせない。
     箸をうまく使えない。
     書いた字が乱れる。
     症状が重くなると物を掴むことが困難になる

構音障害:呂律が廻らなくなる。
     一言一言が不明瞭になり、声のリズムや大きさも整わなくなる。
     症状が重くなると発声が困難になる

眼球振盪:姿勢を変えたり身体を動かしたりした時、
     ある方向を見た時、何もしていないのに眼球が細かく揺れる。

姿勢反射失調:姿勢がうまく保てなくなり、倒れたり傾いたりする。

等の、症状が徐々に進んで行く。 

 

 

 

 

私は重吉洋造 シゲヨシ ヨウゾウと言います

私は重吉洋造 シゲヨシ ヨウゾウと言います。
現在64歳です石川県小松市に在住しています。
私は遺伝性のSCDです 母親からで発症は50過ぎからでした。
ある時に旅館の大広間にある畳ヘリを真っすぐ歩けなくなりました。
そうこうしているうちに会社の社内旅行がありまして、小高い丘陵地から降りてくる時に手すりがなかったものですから後輩の肩に右手を置いて降りてきました。
その様子を一部始終見ていました会社の上司より翌朝にホテルの食堂にて大声で叱られました。
「重吉よ昨日のざまはなんだ?
すぐに病院へ行って検査してこい」と大声で𠮟責 受けました。
怖い上司ですが私は約一月後大学病院の待合室のローカにあります長椅子に座っていましたよ。
その当時は歩く時のフラツキだけでしたが 10年後の今は( ^ω^)・・・現在「車いす」です。
手の方は少し握力は落ちましたがまだ大丈夫です。
しかし書字障害ですのでほとんど代筆です。「構音障害」です。
なるべくゆっくり発音しています。
「老眼」「斜視」「嚥下」「多尿症」に伴い夜眠れない。
どれだけ食べても太れない・・・・・・
「嚥下」についてはご飯に味噌汁をかけています←とても美味しい。
「多尿症」については昨晩も中に何回もトイレに行きました。
夜眠れないについては ベッドで横たわりながらラジオを聴いています。
その他まだあると思います。
【現在の心境】母親の事は全然恨んでない。
むしろ娘二人の事が心配今は毎日あかるく元気で毎日デイサービスに通っています。
この病気は小脳はダメになりますが、大脳は大丈夫ですので頭はぼけていません。
今後とも 前むきに頑張りますりので宜しくお願い致します。

③発症-2

宴会の席で

人の後ろの狭い空間を通ってトイレに行こうとしたとき、周りにつかまらないと進めない!!

準備体操で

片足立ちができない

老化だと思っていた

車の運転で
センターラインが2本見える、
信号が、2つ並んで見える、対向車が自分に向かってくる

初めは、時々だったので、
一時的な疲れからきているのかな?

これらの症状は、まるで、お酒に酔っぱらっているのと同じです

千鳥足  → 体幹障害 →この頃は、少しふらつく程度だったが、現在、歩行器がないと、立っていらられなくなった。

二重に見える → 複視 最近は、50センチ先のものも2つに見えるよに、症状が進んでいる。

僕にはなかったが、呂律が回らない → 構音障害 → 現在少し兆候がある

2012年8月から唱歌の教室で歌を習っている → 声帯のリハビリになっているらしく、構音障害は殆どない。

他には

むせる → 嚥下障害   自分の唾でむせることも

手足の末端 → 痺れや痛み  自立神経不良で血液が流れないのか、指先が紫色になり冷たくなっている。

これは僕に起こっている症状で、人それぞれ、個人差がある。

③発症-1

2002年単身赴任で幕張勤務になり、土日は近くのシネコンに行き、映画をみていた時のことです。

●洋画の字幕が読めない→画面にピントが会わない

●洋画の字幕が二重になって見える

疲れが原因かな?

この症状は時々、起きていた。

2005年8月に家族で恒例の夏休み旅行に四国の金毘羅さんに行った。四国から帰り、高速道路を運転中、センターラインが2本見え、真っ直ぐは知れなくなり、高松から金沢までほぼ、全ての道を女房に運転してもらいなんとか帰ってきた。

常時ではないが、物が2重に見え、特に車の運転ができないことが度々起こった。

そのころまで、脳神経の病気とは思わず(思いたくなかったのかもしれない)眼科に行ったり、そのころ腰から下に、痺れがあったので、整形外科で神経ブロック注射をしたりしました。受診した眼科の医師から、脳の検査を勧められた。

母が脊髄小脳変性症であり、4姉妹もそうであり、親戚の状況から女の病気だと思っていた。

なんと能天気だったのでしょう。

ネットで調べれば、遺伝性の病気で、遺伝の確率は50%で、性別に関係がないことは判ったはずです。

女房に、母親と同じ病気ではないの、と言われ大きな病院でMRIを撮って、脳や脳幹の委縮が確認でき、医師からもほぼ、脊髄小脳変性症であるどろうと言われ、国立の脳神経専門の病院を紹介された。

それが2008年の終わりごろだったように思う。

 

②「語り部」事業

この資料は2014に石川県難病リハビリセンターから「国際医療福祉専門学校七尾校」で生徒たちへの特別講義を依頼され、その時作った。パワーポイントのスライドをWEB化しました。もう5年の前のことで、数値などは当時のままで少し古いですが、基本的には変わっていないと思います。

当時結構、一生懸命作ったので、スライドは70枚になりました。

講義時間は90分を与えられ、リハーサルなしで85分で話し終えました。

質疑の時間が5分しかとれなかったのは残念です。

当時を振り返りながら、皆さんの参考に「脊髄小脳変性症」とは、どんな病気か自分が体験中のことを知っていただき、障害のない人達が難病患者がどのような気持ちで生きているかを知っていただき、優しい気持ちになって頂ければ、幸いです。

また、これを掲載するにあたって、現在の心境の変化なども随時、載せていきます。

①自己紹介

名前   : 上田 啓司(うえだ けいし)

棲家   : 金沢市

年齢   : 昭和28年生まれ 65歳 2019年現在

病気の種類:SCA3(マシャド・ジョセフ病)

発症時期 :2002年頃(48歳)

判明時期 :2008年

2019年4月21日 バスレクリェーション

「SCD・MSA友の会」の恒例「春のバス旅行」です。

今年は、金沢の海側の、内灘町です。

10時に県の難病センターに集合、出発しました。

海青協から5人のボランティアのお世話を受けました。

この組織からお世話を頂くのは、5回目です。

近くても、近年になく楽しいバス旅行でした。

11時過ぎにはバーべキューのお昼でした。

僕は、生ビールと焼肉をたらふく頂き大満足の一日でした。

 

お昼前に、内灘の民族資料館を見学してビデオを3巻見ました。

内容は、戦前、大正末期に材木商で材をなした、平澤嘉太郎が個人の別荘をつくるのではなく、北陸の人達のために作った粟ヶ崎遊園のこと、戦後、朝鮮戦争があったころの米軍基地との内灘の闘争の歴史、そして江戸時代から計画され昭和60年に完成した、河北潟干拓事業のことを、学びました。

こんな近くに、そんなことがあったことは、言葉だけは知っていましたが、今日初めてその内容をしることが出来たことは、大変意義がありました。

金沢近辺にお住いの方は一度訪れたらいいと感じました。

 

参加した障害者は7人いましたが、手帳を持ってきたのは、3名で皆が持っていれば、付沿いも含めて14名の入場料が要らなかったのに。

バスの中で僕は、障害者の自覚が足りない!来年は忘れないようにと釘を刺したのでした。

最後は、若い女の子のボランティアさんの白い足と一緒に足湯を楽しみ、爺は鼻の下を延ばしたのであります。

 

 

バスに乗り込み しゅっぱ~つ

内灘民族資料館

BBQはサイコー

ほのぼの湯で足湯と休憩